モロッコはマラケシュからはじまりました。
ウィキ(本日付「マラケシュ」)によれば、「マラケシュ (مراكش marrākish)は、モロッコ中央部、ラバトの南西約280km、アトラス山脈山麓の丘陵地帯、テンシフト川の南岸に位置する都市で、「南方産の真珠」と呼ばれてきた」とのこと、位置的にはこんな感じ。
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マラケシュはちょっとインドみたい。きっと、程度の差はあれど、貧しいことには変わらない。
スラムドッグとは言わないけれど、客引きも結構うるさいし。さすがアフリカだけあって、
昼間はもの凄く暑い。うっかり、帽子を被らないで日中歩いていると、すぐに熱射にやられてしまいます。
そんな中、断っても断っても、ついてこられるのはなかなか大変。そもそもメディナ(旧市街)は迷いやすく、さらに客引きを振り切ろうと歩いていると、簡単に道に迷ってしまう。そして、道に迷って地図でも見たら、また、
そこに目をつけて、客引きや偽ガイドがやってくる。「What do you want?」といきなり、聞いてもいないのに、質問をしてくる。この直接的な表現も、悪気はないんだろうけれど、また神経に触ることもあり。
「単に●●に行きたいだけだから、ほっといてー。」といっても、「じゃあ、それはこっちだ、着いてこい。」と
言ってくる。着いていくと案内料を請求されるし、仮に自分で道がわかって歩いたとしても、少し先を歩いて、
道案内をしている風に振舞い、やはり案内料を請求してくるし、なかなか大変。さらに、客引きを断ると、「わかった。●●だろ、こっちの方向だ。」と逆の方向を教えられたり、子供に方向を騙されたり、「今日ホテルはあるのか?」と聞かれ、「●●を予約してて、今から行くところ。」と返答して振り切ろうとすると、「●●のホテルか。そこまで道は結構複雑だ。俺はそこのオーナーをやっているから、ついてこい。」なんて、明らかな嘘を平気でついてきたりする。
あー、もーーーー!!!!
と思いたくなるけど、振り返ってみる。なぜ彼らはそういって行動するのだろう?やっぱりそれは、そうやって行動するのが合理的な環境にいるからかな?たとえば、ああやって旅行者を騙して、案内料を請求したりしているけれど、仮に働き口があったら、そんな行動をすることのメリットはなくなるんだろうなー、現に先進国にそんな人はいないし。やっぱり、そうすると、産業の雇用創出の機能っていうのは、やっぱりすごいじゃんか、頭ではわかっていたけど、ちょっとだけ体感。
開発はどうなんだろ?たとえば、授業でやったWTOや国際貿易も、マクロ的な観点から途上国の経済発展をするための様々な試みの一つではあるけれど、これらの人たちにどのくらいの効果が及ぶのかしら?Acumen Fundみたいに現地のベンチャーに直接投資をする方が、貧困解消・途上国開発という観点からは
効果的という主張は正しいのかな?きっと、両方のアプローチが必要なのさ、頭の中でささやくそんな模範解答は心に訴えない。
あれだけ面白そうにみえた経済法の勉強が少し相対化されてきて、いい感じ。
きっと、インドもそうだし、マラケシュの人々もそうだけど、彼らが無意識にか意識的にか行っているニセガイドや観光客へのたかり行為だって、外的な要因が多いのかもしれない。子供の振舞いの悪さは子供に責任があるのではない、という立論に若干似ているのだろうか。
そういった経済格差があるからこそ、インドだってモロッコだって、チープなお金で比較すると贅沢な旅ができている。
そして、それを享受していること自体、経済格差というアドバンテージを利用しているようで、少し心がひけなくもない。途上国にお金を落とすという観点からは悪くないという議論もあり得そうだけど、そもそも経済力が拮抗していたら、そういった旅も難しいだろうし、そうすると、経済格差の存在があってこそはじめて存在するこういった旅のスタイル(ローコストで快適な旅)が本当にいいものかしら?そういった疑問は、どっか頭の遠くにひっかかっている気がする。安く旅行できることを両手話に喜ぶことが、いささか滑稽で無知な行為にも見え、また、それに対して何もできないことに対して、少しだけ、でも拭いきれない違和感を感じるような。
でも、マラケシュのスークの屋根の上にはケーブルテレビのアンテナが見える建物もあったりして、「貧しい途上国」というカテゴリーでは括れないなー、とも同時に思うんだけどね。
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前に読んだ世銀の西水さんの書いた本(「国を作るという仕事」)のくだりがとっても印象的。プリンストンで経済学を教えていた彼女は、世銀からサバティカル(研究休暇みたいなもの)のオファーをもらった。それは、とってもいいオファーだったけれど、そのオファーの条件として世銀から「最貧国の貧困の状況をちゃんと見てくること」という条件を課される。たった一つの条件。西水さんはエジプトに行って、オールドカイロでナディアという幼女に出会う、彼女は貧しい生活の中で脱水症状になり、西水さんの目の前で息を引き取る。帰りの飛行機で、西水さんは、考えた。はたしてこのままプリンストンで経済学を教えることで、裕福なアメリカの学生に知識と教養を付けることはできたとしても、それ以上の影響はない。そして、目に閃光が走ったという。
「誰の神様でもいいから、ぶん殴りたかった。
天を仰いで、辺りを見回して・・・。
その瞬間、あの子を殺した化け物が見えたのです。
きらびやかな都会がそこにある。
最先端をいく技術と、優秀な才能と、膨大な富が溢れる都会がある。
でも私の腕には、命尽きたナデイアが眠る。
悪統治。民衆など気にもかけないリーダーたちの仕業と、直感したのです」。
西水さんについてはこちらもご参照(http://www.sophiabank.co.jp/japanese/about/partners/nishimizu.html)
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植民地化とか、そういった長い歴史の根っこも含めて難しい問題なのだろう。マラケシュのメディナにもかつて奴隷をオークションしてあった場所みたいなのがあったりして、そういった時代からすると、現在は格差解消の過渡期という風にみることもできるのかもしれないけれど、いずれにしても、観光客にたからざるを得ない人たちが存在してしまう環境。それでも、マラケシュのフナ広場での人々のエネルギーは力強く、みんな力強く、そして、愉快でいて、それに、とってもとってもアーティスティックな遊び心のある国。そういった意味で、とっても不思議。
(つづく)